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民主主義=多数決じゃないよね

いつから民主主義=多数決になったんだろ。
ぼくの理解している民主主義って言葉の定義と多数決は全然イコールにならないけどナ。

民主主義っていうのは、その組織やら国やら地域やらの権力者が「みんな」ってことでいいよねっていう制度のことだと思う。王様でも皇帝でも貴族でも社長でも大統領でも首相でもなくって「みんな」だ。
みんなで自分たちの定義する社会の範囲の舵取りをやってこうぜってやつだ。
みんなでだからえっらい時間がかかる。
なにか1つのことを決めるのだってとってもとっても時間がかかる。
そんなことを衆寓政治だ!って言う人もいるけど、民主主義ってそんなもんだ。
だから、ぼくはイライラしちゃうからちゃんちき堂はぼくと奥さんの2人以上にしないって決めてる。3人になったらもう大変だろうさ。

さすがに1億人も所属している人がいたらな~んにも進まないから、じゃあまぁあんたのこと信頼するから日々の運用をやっていいよってぼくらから委託されているのが行政って仕組みだろ。
じゃあ、まぁ、あんたのこと多くの人が信頼しているみたいだし、イロイロ約束もしたから舵取りを任せてみるヨっていうのが議会ってやるダロ。

でも、その根底にあるのはこの社会っていうのは「ぼくらみんなのものダヨ」っていう定義だったよね。
決してこの社会の「比較的多数の誰かのもの」じゃない。
だから、多数決は民主主義とイコールじゃない。
むしろ、多数決は民主主義にとってとってもとっても危険な1つの道具だったはずだ。

この国は議会制民主主義を採用しているから、国会議員って人たちはぼくらの「比較的多数」の人が選んだ人たちのことだ。
今の衆議院だったら選挙権持っている人(この時点でみんなじゃない)の内の投票率何%くらいだっけ?この前の選挙って?半分くらいの人が選んだ人たちだ。
これが今の与党やらって話になるとさらにその投票率半分の2割ちょっとくらいだっけ?の人が選んだ人たちってことだ。1億何千万のどのくらいの「みんな」なの?1割くらいなのかな?
だから、全然みんなでもないし、多数でもない。
だから「比較的多数」っていうキーワードってとっても危険だと思うし、多数決なんてとてもとても慎重に使わないといけない道具だとぼくは思う。
民主主義っていうぼくらが暮らしている社会の根底の「主義」とイコールじゃない道具だからだ。

なんで、今の社会が民主主義になったんだろうか。
一部の(王様やら貴族やら豪農やら商人やらまぁなんでもいいけど)人たちだけが権力を持っていて、その人たちを監視する仕組みがないと、ぼくらがひどい目にあってきたからじゃなかったかしらん。
だからみんなで権力を行使すれば、みんなにとっていいよねって仕組みをつくったんじゃなかったかしらん。
みんなの中には年齢も違う、性別も、趣味も、主義も、価値観も身体能力もなんやらイロイロ違う「みんな」がいるから利害はいっつもぶつかって違って当たり前で、だから「話し合うべ」っていうのが民主主義じゃなかったかしらん?
話し合わないと「少数」になっちゃう人がいつも割を食っちゃうかもしれないから。でも、その時々の少数の人達だって「みんな」だから、だから少数の意見を大切にするっていうのは「多数決」よりも大事な民主主義の大前提じゃなかったかしらん?
そして、それでも前に進まないといけない時があるから、ぼくらは自分と違う誰かを想う「想像力」を大事にしようっていう制度だったんじゃないかしらん?
そんな土台のケッコウ上の方にある「危険な道具」の1つが「多数決」だったんじゃないかしらん?

この国は保守が強い国だった。
今はまったく違うと思うけれど。
ぼくが思う保守っていうのはかなり民主主義とイコールに近いところにあって。
若くて、理想に燃えて、でも視野の狭い若者が「今すぐこうすべきだ!」っていうのを「うんうん、元気があってよろしい」なんて肩透かししながら、みんなが納得するか様子をみながら、お茶を濁しながら、でも、調整しながら、時にはじゃあ行くかって。たまには「なんで今までこうだったのか」っていうことを若者に滔々と諭して翻意させたりとか。
なんだか全体を見渡しながら白髭を撫でている穏やかなおじいちゃんのイメージの言葉だ。

でも、今は違うネ。
今のこの国はちっとも民主主義じゃないし与党っていう人たちは保守でもない。
「比較的多数」っていう少数が「多数決」っていう伝家の宝刀(めったに使わないから伝家の宝刀っていうんだろうに)を抜きっぱなしにして、世論調査でも(「時の権力者と会食しているようなメディアの調査であっても)反対が多数の法案であっても、そしてその基礎データが改ざんされていたり、全然基礎データになっていなかったりしても、隠ぺいされていたとしても決めてしまう。
それがいったいどんな法案だったとしても、だれにとって良いものだったりしたとしても、その決め方は民主主義とは違うとぼくは思う。

この国が危険だから。
みんなにとって必要だから。
誰だってそう言うだろう。自分の主張を通したければ。
でも、民主主義にとって大事なのは「みんな」で話し合うことだし、「みんな」が理解することだし、「みんな」が納得することだと思う。それが積極的であっても消極的であっても。
だから時間もかかるし、自分と考え方の違う人に納得してもらうのはとっても大変なことだと思う。
白髭を撫でながらみんなのことを見渡しているおじいちゃんはそのことを心得ていた人のことだとぼくは思う。
「まぁ、じいちゃんが言うなら」
「まぁ、こんなけ話し合ってきたから」
理由はイロイロあっても、まぁいいかって「塩梅」を知っていたと思う。
そして、そういうことって民主主義にはとっても大切なことだと思う。

そして、この国の社会の根本である民主主義に反する手段で決まったことは、そりゃ無効だよねって思うよね。
少なくても、尊重しようとさえ思っていない人が進めているならば。
「主義」を自分の都合用の「道具」に置き換えてしまっているならば。

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