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【寛容と多様性のこと。そしてぼくのSNSポリシーについて】

ぼくのSNSに上げる記事に肯定的、否定的な意見をいただくことがあります。コメントだったりメッセージだったり。

特にやはり政治について語った時にはその傾向が顕著なんですが、基本的に時間の許す限り返事を書かせていただいています(たまにばたばたしてて返信してなかったりすることあるかと思いマス。。。すみません、わざとじゃないっス!)。

ただ、以下のような場合にはコメントを控えることがあります。
削除することもあるかと思います。
また、ぼくの都合でその方をブロックすることもあります。

ーーーーーーーーここからーーーーーーーーー
①全然ぼくの記事を読んでいないと「ぼくが」感じるもの。その上で自分の意見や感情をぶっつけてくるようなもの。
⇒ 理由を聞くと「読みましたよ!」って言われることもあります。でも、ぼくにはそう思えないことがあります。それはぼくの表現力の不足もあるかと思います。であれば、その方にわかるような文章力が今のぼくにはないということなので、その方とは会話が成立しないと思いますので。

②意見の内容よりも、まずはこれ失礼だろって「ぼくが」感じるもの。
⇒ これも失礼じゃないですかって言うと「そんなつもりはない!」と必ず返されます。失礼かどうかを判断するのは言葉を発する方ではなく受け止める方デス。でも、そういった理屈もご理解していただけることはなかなかないデス。また、「あんただって失礼だろ!」って言われることもあります。それも同様でぼくにそんなつもりがなくても相手がそう受け取ったのであれば、ぼくの力量の問題なのだと思います。ですのでいずれの場合にも対話が成立する前に感情的になってしまうのでやめた方がいいと思っています。

③「①」「②」に上乗せして、以下の理由で押し付けられるもの
⇒ 「あなたは影響力があるんだから、ちゃんと考えてものを言え」などの要求。
そもそも、影響力の定義がよくわかないですが、例えどのような立場にあったとしても「他人を傷つけるような差別的な発言」や「自覚的なウソ」ではないものであれば、だれがなに言ったっていいとぼくは思っています。聞きたくないことを聞かない権利があるんですから。そして、その方が「ちゃんと考えて言え!」と思われるのもまた全然OKだと思いますが、その場合であっても人の振り見て我が振り直せばいいことであって、ぼくがその方に強制されるものではないと思います。

⇒ 「あなたは間違っている!」という指摘。
例えば誤字脱字(まぁ、それもSNS上のぼくの記事の内容であれば、誤解受けてもいいやってぼくが思ってればいい気がしますが)などに対する指摘はありがたいですが、歴史的なこと、社会的なことというのは科学とは違って、どうしても主観は入ってくるものデス。だからこそできる限り第三者、そして多くの方により検証され、時代のうつろいとともに再検証されという営みが繰り返されてくるものだと思います。
ですから、ぼくはいつも「ぼくはこう思う」と主張しています。なので「私が絶対正しい!」という人の意見は受け入れられません。
また、そう思うのであれば一人でも多くの人に自分の言葉を届けるように「ご自分」が努力し、ぼくに対してもぼくが耳を傾けたくなるような言葉を「その方」ががんばって試行錯誤することだと思います。

⇒ 「あなたはこういう人なんですね(という決めつけ)+ネガティブな感想」。
どこにもそんなことは書いていないのに、その方の中の独自のルールでぼくという人格を類型化して、それに対する誹謗をいただくのは、まったく愉快なことではありません。また、そのような読み方、書き方をなさる方は基本的に「ぼく」をその方のフィルターを通してしかみようとしてくれていないので、どんな言葉も届くことが難しいとぼくは考えています。または今のぼくの力量や器では無理デス。

⇒ 「私にも主張する自由があるし、あなたはそれに答える義務がある」という要求。
これは半分は本当にその通りだと思います。でも、後半はそう思いません。まず、主張するのはいいですけれど、できたらご自分のとこでやればいいんじゃないかと思うのと(まぁ、どうしてもっていうならそれを止めることはぼくにはできませんが)、ぼくにはそれに答える義務はありません。なるべく真摯にやっていこうっていうぼくの個人的な気持ちがあるだけデス。ぼくの書いた文章を理解してもらえず、失礼な文言で、ご自分の主張をされた上で、ぼくにだけ寛容に対応しろというのは、もしかしたらぼくのことを聖人や仙人や人形とでも思っているのかもしれませんが、ぼくはただの小さなシフォンケーキ屋を営むリアカー引きデス。
また、ぼくの限られた時間。1日は24時間で1年は365日の間に「できること」と「したいこと」のバランスはいつも「したいこと」が勝っています。時間があればもっといろんなことをやりたいし、会いたい人に会いたいと思っています。なので、こういう方にいくら要求されても、その優先順位は限りなく下がってしまいます。どのような方であっても、ぼくの時間をご自分の都合で自由にできると思ってはいけないと思うのデス。

⇒ 「多様性が大事だっていうけれど、全然多様な意見を尊重しないじゃないか!」という指摘。
多様性というのを「寛容であることを要求すること」と同一視しているこのような意見はちょっとぼくには対応が無理デス。ぼくは自分の器がそんなに大きいとは思っていないし、心も強くないし、寛容ではありません。ただ、今日よりは明日、もうちょっとそうなりたいなって思っているただの人間ではあります。その上で、多様性というのはなんでもかんでもぼくが寛容であることではないと思います。自分が受け入れられないからといって「否定しない」ことから多様性を尊重することは始まると思います。
ですから、ぼくが賛同できないすべての意見がこの社会にあることをぼくは「否定」していません。でも、ぼくが受け入れる義務はありません。そう思っています。その上で自分が生きやすい社会になったらいいなと思っているので、自分なりの行動と発信によって変えて行きたいと思っています。だからぼくと違う意見の方もそうすればいいとぼくは思っています。

⇒ 「対案もないのに発言するな!」という意見
主張する権利はだれにでもありますし、その時に必ず対案が必要なんてことはぼくはないと思っています。主張が多くの人に受け入れられるか、られないかの違いだけがあると思います。その時に「対案」があった方が有効の場合があるとは思いますが、「より有効な方法」をそれぞれが考えて発言すればいいだけで、OK・NGを他人が決めることではないと思います。自分と対立する意見があった場合は対話を求める(相手が受け入れるように)か、自分の意見と言葉こそを磨いてより多くの方に届くよう努力することが大切だとぼくは思います。

ぼくは自分が対話したいと思った方には、相手の視界に入り、関心を持ってもらえるように努力し、その方の人なりを自分なりに肯定的に理解し、自分の言葉を探します。そうして、相手の方がぼくのために使っていただく時間をその方が「無駄だった」と思われないようにしたいと思います。それはぼくがやるべきことでありマス。
同様のことをぼくと対話をしたいと望む方には要求します。
そうでないのであれば、なぜぼくが付き合う必要があるのか、今のところぼくには理解できません。

他者を自分の都合の良いように変えるということは、一方的な要求ではなく、自分の行動と言葉をもって、自分の努力によって行うべきことだとぼくは思っています。

また、「批判」というものは「尊重」の上に成り立つものであるとぼくは思っています。

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